2013年02月05日

ルーマン社会システム理論 ゲオルク・クニール(7)

ルーマンの社会理論の解説の第7回目です。
今回は、マトゥラーナやヴィレラが適用できないと述べていた、社会システムに対するオートポイエーシスの適用に関してです。
前回の論点でも述べましたが、創発性や構造的カップリングという語を理解することはできていますでしょうか?
創発性は、質的に新しいレベルでの秩序レベルの出現をさし、また構造的カップリングは互いに依存しつつ互いに環境であるような二システム間の特殊な関係をさします。
具体的な例は前回の記事にあります。
新しい概念が次々と出てきますので、一つ一つ正確に理解するように努めていきましょう。

過去の記事に関してはルーマン社会システム理論-ゲオルク・クニールのタグを参照ください。

ルーマン 社会システム理論 [「知」の扉をひらく]

新品価格
¥2,625から
(2013/1/1 10:02時点)


概要
4.創発的秩序レベルとしての社会システム
オートポイエーシス的システム理論は人間をどうとらえるか
・オートポイエーシス概念が社会的なものの現象領域に転用されることによって、社会的に形成されたものが閉鎖的にはたらく統一体として記述されるという帰結が生じる。
→この統一体は、その要素の回帰的生産を媒介として自分自身を産み出し保存するのだとみられることになる。

・社会システムの諸要素、つまりそれ以上には分解されえない究極的な統一体を、ルーマンはコミュニケーションと呼んでいる。
→それは継続的にコミュニケーションをコミュニケーションに結びつけることによって再生産される。

・社会的な出来事は、普通には主観哲学の概念で記述されていたし、今もそうである。それによれば、人間が社会的なものの最小の単位をなしている。
→オートポイエーシスという構想を社会学の領域に転用すると、こうした見方はいずれも旧式なものとされることになる。

・ルーマンによれば、コミュニケーションは人間の行為の結果ではなく、社会システムの産物である。「人間はコミュニケートすることはできない。コミュニケーションだけがコミュニケートしうるのである。」

・人間ではなくコミュニケーションだけがコミュニケートするとはどういうことを意味しているのか。

・人間はシステムではなく、別々にはたらく多数のシステムからなっている。
→人間にかかわる様々な過程が存在するが、これらの多様なシステムを統括するオートポイエーシス的統一体は存在しない。

・どうして<人間はコミュニケーションできない>と言えるのか。
→このテーゼは<人間のさまざまなシステムは自己準拠的-閉鎖的にはたらく>という考察からの直接的な帰結である。
→したがって、二つの意識システムのあいだには直接的な接触は存在しない。

コミュニケーションのオートポイエーシス
・コミュニケーションは自立的で固有のダイナミクスをもつ過程をなしている。

・コミュニケーションは有機体や神経システムや意識システムのはたらきなのではない。コミュニケーションは新しい種類のシステム-ほかならぬ社会システム-を構成することによって成立する。
→したがって、社会システムは回帰的過程の中で継続的にコミュニケーションをコミュニケーションに結びつけるオートポイエーシス的システムなのである。

・社会的な出来事は、固有のダイナミクスをもってはたらくひとつの自律的な次元を形成しているとはいえ、社会システムが人間とは独立に作動すると主張しているわけではないということを強調しておく必要がある。

・コミュニケーションは創発的秩序レベルをなしている。オートポイエーシスという構想が意味しているのは、まさにこのことである。

・社会的な出来事は、人間に必然的に依存せざるを得ない。その限りにおいて人間またはそれに対応する人間のさまざまなシステムは、コミュニケーションの過程に対してかけがいのない寄与をなしている。
→しかし、こうした寄与は環境としての寄与であり、したがって社会システムの外部で生じる出来事たることにとどまっているのである。

コミュニケーションと意識システム
・したがってこの点からすれば、オートポイエーシス的システムの理論のなかでは、哲学と社会学の伝統とくらべて、人間がその特権的な地位を喪失しているといわれれうのは、全く正しい。

・心的システムは社会システムの環境の内部にあって例外的な位置をしめていると言える。
→心的システムだけが、コミュニケーションを妨げたり、誘発したり、刺激したりする可能性を意のままにすることができるからである。

・コミュニケーションと意識とは自己準拠的-閉鎖的システムとして互いに完全に切り離されてはたらき、-しかも同時に、他k外に補完的な関係に立っているのである。
→簡単に言えば、社会システムと心的システムとは、構造的にカップリングされているのである。

社会システムと心的システムの構造的カップリング
・社会システムと心的システムとは構造上互いにカップリングしている。
→意識がなければコミュニケーションはなく、コミュニケーションがなければ意識もない。
→それと同時にコミュニケーションと意識とは互いに他に対して環境をなしており、両者は融合することがなく、したがってコミュニケーションと意識とを包括する超システムを構成することもない。

・コミュニケーションシステムはあくまでもはたらきにおいて閉鎖的な自己準拠的システムであって、それ以外のものではありえない。

・システム理論の言語で語られていることは、最初のうちは極めて複雑で抽象的であるように聞こえるけれど、日常生活のなかではっきりと観察できることからそれほど隔絶したことが言われているわけではない。
→例えば、ゼミナールで討論が行われている間に、脇道にそれた思考をするがある。
・コミュニケーションは次から次へと新しいコミュニケーションの連鎖を産み出し、コミュニケーションに参加する意識の方は次から次えとそれぞれに独自な思考の景気を生み出すが、そうしたアイコとなるネットワークが並行関係をたどったり、重なったりすることはない。

・オートポイエーシス概念を一般化し、それを再度特殊かすることによって、生命システムやニューロンシステムや心的システムと同様に、社会システムも、それぞれ種類を異にする統一体として捉えることができるようになった。
→それらのシステムは、それぞれ異なる創発性のレベルでそれぞれに独自のオートポイエーシスをっそれぞれに固有な仕方で実現するのである。
→オートポイエーシスという構想は、システムの個別類型感の同一性ではなく、根本的な差異を強調する。

意味をめぐる問題
・ここで行った考察はルーマンの理論のさらに進んだ基本概念である意味について論ずる際に、つねに思い浮かべられていなければならない。

・我々は意味という概念をたいていはある特定の目的ないし特定の目標を記述するために用いている。
・しかしわれわれは意味概念を、語の意義という意味にも用いる。

・社会システム理論では、意味概念は我々の日常的な理解とは違った用いられ方がされる。

・ルーマンのかんがえによれば 、心的システムと社会システムは意味を構成し使用するシステムである。

現実性と可能性
・意味にとって本質的なことは、現実性と可能性との区別である。

・あるものは、ある瞬間に意味という出来事の中心を占め、それと同時にさらに広範な可能性を指し示す。
→その際に、現実性の核心は不安定である。そのときどきに現実化されたものは、摩耗し、活気を失い、崩壊し、絶えず強制されて、可能的なものの領域から新しいものを選び出し、次の瞬間にそれを現実化する。
→だから、意味というのは、現実性と可能性との区別を不断に再構成し、継続的に可能性を現実化することなのである。

・「意味は、自分自身を推進する(システムによって条件づけられうる)過程として、顕在化の過程と潜在化の過程とを統一したものであり、再-顕在化の過程と再-潜在化の過程とを統一したものなのである」

・最初のうちは抽象的と思われていたこの考察は心的システムないしは社会システムに転用すれば、ただちに理解できるものとなる。
→それぞれの思考は志向的な構造をもっている。意識は常になにものかについての意識である。
→それぞれの瞬間における思考はなにものかを志向しており、それと同時に、この志向されたものは体験のさらなる可能性を指し示している。

意味とコミュニケーション
・こうした考察は社会システムにもそっくり転用されうる。それぞれの意識作用と同様に、それぞれのコミュニケーションも志向的構造をもっている。
→コミュニケーションはつねに何者かについてのコミュニケーションである。

・意味は選択によって起こる出来事であって、つねにある選択が行われ、ある潜在的な可能性が現実的にならなければならない。
→したがって、意味は複雑性との関わり方の一形態なのである。しかも意味はそれと同時に、複雑性の縮減と保存を可能にする。
→意味は、選択的なとらえ方、瞬間的な選択をかぬにするような仕方で、複雑性を縮減する。しかしその際、複雑性は破壊されるのではなく、さらに進んだシステムの働きに委ねられるようになる。

・「心的システムや社会システムのはたらきは複雑性を根絶してしまうのではなく、意味を用いることによって複雑性を継続的に生成するのである。それぞれ一定の意味は一定の継続可能性を促し、ほかの可能性を蓋然性のないことにしたり、困難とみたり、疎遠なこととしたり(一時的に)排除したりすることによって自分の資格を証明する」


・意味を加工するシステムは、意味という出来事から抜け出すことができない。
→このシステムにとっては「原理的に全てのものが接近可能であるが、すべてのものは意味という形式でしか接近できない」

意味の三つの次元
・ルーマンは、心的な出来事や社会的な出来事を観察するときに三つの意味次元を区別している。
→事象次元は、何が世界の中に現れるかを、すなわち、事物、理論、意見などを特定する、
→社会的次元は誰が事物、理論、意見などを主題化するかを明らかにする。
→時間的次元はあることがいつ起こるかについての情報をあたえる。

大きな流れ
ルーマンによると社会システムはオートポイエーシス的なシステムである。そこでの要素はコミュニケーションとされる。また、社会システムと心的システムは特別な関係をもち構造的カップリングしている。
心的システムと社会システムは意味を用いるシステムである。それは、継続的に可能性を現実化することである。意味は、複雑性とのかかわり方の一形態と見ることができる。

論点
今回は、社会システムをオートポイエーシス的なシステムとみるには、コミュニケーションを要素とみようということでした。上でも指摘されていますが、社会システムを考えるとき基本的な出発点、要素というのを人間とか人間の意識としようということは普通のことであり、コミュニケーションを要素と掲げるのは奇異に感じるかもしれません。
また、意味に関しても通常と違った意味で用いられているので注意が必要です。ただ、あらかじめ違う意味でもちいると言っているので頭の中では、AとかBとか適当なラベリングをしてかんがればすんなり理解できるかもしれませんね。
論点を挙げます。
要素ということの定義
人間が社会システムの要素としては不適格で、コミュニケーションは適格であるというのは理解出来る話です。ただ、その説明は、コミュニケーションがコミュニケーションを産みだす、つまり、オートぽいエティックな作動をすることであったり、あるいは、人間は閉鎖的なシステムの塊(?)でそれゆえコミュニケーションに参加することはできても、直接作動し得ないということでした。
ここで、要素であるかどうかということが問題となっているのですが、要素であるかどうかのチェックは要素の定義にはまっているかどうかで判断されるものだと思います。
オートポイエーシス的システムに関して、要素がどのような作動をするか、つまり自己産出的な作動など触れられていますが、それらは要素であれば満たすべき必要条件であるような説明だと思います。
ずばり、これこれを満たしているものが要素であるという定義はどのようになるでしょうか。
その定義によるとコミュニケーション以外は社会システムの要素はありえないのか。ちがう形で社会システムをとらえることはできるのか。

posted by きょうよくん at 16:08| Comment(1) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
はじめまして。

ルーマンに関して調べていましたら、このサイトにたどり着きました。
ルーマンのことを全然知らないので変な質問をしてしまっていたら申し訳ないのですが、上の文章をよむと「人間はいくつかのシステムが合わさったもの」であるから、「社会システムの要素となれない」と述べているようですが、システムはほかのシステムの要素にはなれないということでしょうか?

ルーマン関係の図書もむずかしくてあまり読めてない、ほんとに初心者ですが、もし、よろしければお教えいただけないでしょうか><
Posted by たろう at 2013年02月13日 09:40
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。