2013年01月09日

経済思想 八木紀一郎(6)

八木紀一郎の「経済思想」、第5章 ユートピアと階級闘争 社会主義者の経済学をまとめていきます。
今回はとうとう経済システムの展開に触れられるところです。楽しんで読んでいきましょう。

この本に関するほかの記事は経済思想-八木紀一郎のタグを参照ください。
*もちろん、内容の全てを紹介するわけではありません。本を持っていないかたは多少の前提知識を要求する書き方をいたしますが、ご了承ください。

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概要
(1)理論が大衆をとらえる
・社会主義と共産主義はふつう、私有財産制度を否定あるは限定してつくられる共同的な組織によって経済を運営することと考えられています。
→社会主義と共産主義の区別は人によって様々ですが、共産主義は社会主義のうち、私有財産排除の思想の
徹底したものと考えておけば良いでしょう。

・社会主義・共産主義は1840年代に当時の政治的後進国ドイツの急進的知識人たちに革命思想として受け入れられました。
→それから1世紀半のあいだ、それらは純粋な知的世界の存在であるどころか、社会主義国家体制を支える思想として、歴史の渦の中に存在し続けてきました。

・青年マルクスはこのように言っています。「およそ革命には受動的な要素が、物質的な基礎が必要なのである。理論はつねに、それがある国民の欲求の実現である場合にだけ、その国民のうちに実現される。」

(2)社会主義思想の二重性
・社会主義・共産主義は、より理想に近い社会を構想した知識人の思想が大衆の反資本主義的心情と結びついたところに生まれました。
→この成立自体が社会主義思想の二重性を示しています。

・サン・シモンは科学と産業による社会の再組織化を掲げ、ロバート・オーエンは理想の管理社会を私有財産の制約なしに実現しようとしました。

・初期の用例では社会主義や共産主義ということばの反対語は「個人主義」です。
→大衆にとっては、社会主義や共産主義は、利己主義的競争に対抗する相互扶助・連帯の原理に姿を与えるものとして受け止められました。

・社会主義ののもつ今一つの二重性はその政治観に現れています。
→社会主義・共産主義は本来は経済問題の社会的、共同的解決をめざしたもので、その出発点からすれば非政治的、非国家的な思想です。
→しかし、その解決の条件を作り出す革命ないし改革をめざした思想となる場合には、きわめて強い政治性をおびます。

・これらの政治運動も、日常的利益の代弁とは異なった次元の、究極的な非政治的な目標をもっています。
→それがもっとも逆説的な表現をとった例は、マルクスおよびレーニンのプロレタリア独裁の理論で、これによれば労働者階級の権力掌握は社会主義を実現することによって国家自体を死滅させる。

(3)サン・シモンの産業主義
・知識人の社会主義の代表はサン・シモンの産業主義です。
→生産のな科学的・計画的組織化をうたう彼の主張は、きわめてテクノクラート的で、現在の私たちが社会主義ということばでイメージするものとはかなり異なっています。

・エンゲルスが賛嘆したように、サン・シモンは階級闘争という観点から歴史を考察し、フランス革命を封建貴族を倒したもののブルジョアに権力を与えた「未完の革命」であると考えました。

・問題は革命の主体と革命の内容です。
→サン・シモンがブルジョアというのは、封建的特権はもたないものの、法律と金銭資産によって社会を支配するに至った中間階級です。サン・シモンは彼らのイデオロギーである自由主義によっては、社会の再組織は達成できないとみます。

・来るべき変革の課題は、社会の多数である「産業者」が従属的地位を脱して、科学・教育・法律・財政を生産のために組織する産業的体制を樹立することです。

・サン・シモンは、産業的体制に向けた社会の再組織化のために、自然科学においてニュートンが建設した科学に匹敵するべき実証的な科学が生まれるべきだと考えました。
→ハイエクはサン・シモンの思想が、社会に対する根本的な誤解に基づく「理性の濫用」だと考えました。ハイエクによれば、社会は、任意に造形可能な統一体ではないのです。

(4)社会主義の経済学批判
・マルクスは未来社会の青写真を描くことを拒否しました。彼の主著「資本論」には「経済学批判」という副題がついていますが、これは一体何を意味するのでしょうか。

・労働者教育運動に参加していたトマス・ホジスキンやオーエン派共同社会主義者のウィリアム・タムソンは、地代や資本利潤は労働の生み出す全収入からの正当化されえない控除であると論じました、
・同じような経済学批判はP・J・プルードンによって手がけられました。
→プルードンによれば、資本は分業による高生産性=「集合力」に支払いを行わないことによって利潤を得るのですが、同時にそのために生産物の販路を失い利潤を実現できなくする自己矛盾した存在です。

・富と貧困の対立は、経済学を通して、資本と労働という相互に関連し合う二つの範疇に姿を変えます。資本と労働の対立は、すなわち、資本主義の運動形態なのです。
→ですから、現在的な社会問題は、資本と労働の対決を解決する社会組織を生み出すことによって初めて解決するのであり、その展開は経済学は経済学の批判的研究によって与えられるだろう、社会主義者たちはこのように考えたわけです。

(5)疎外された労働
・マルクスとエンゲルスは、古典派経済学は「私的所有の事実から出発するが、この事実を我々に解明してくれない」ことを発見します。
→経済学は、労働が価値をつくるというように、一見、労働を重視しているようで、その実、「労働者と生産との間の直接的関係を考察しないことによって、労働者の本質における疎外を隠蔽している」

・疎外というは、誰かに何かを譲り渡すということです。
→交換はものを互いに譲渡することですが、自分を譲り渡してしまえば、その人は奴隷になります。

・マルクスが「労働の疎外」の第一として挙げるのは、労働者は生産する際の対象、また生産された生産物から疎外されていることです。
→これは労働者が他人の生産手段によって働き、その生産物も他人のものになることを指しています。

・第二に、生産=労働自体が労働者にとって疎外されているということは、労働者は賃金を支払う人に彼の労働自体を、その内容の決定も含めて譲渡してしまっているということです。

・マルクスは以上の二つの「疎外」のために「類的本質」の疎外が生じると言います。
→この第三の疎外は、労働もその生産物も譲渡してしまうことによって、労働=生産の意味が奪われ、自分の能力を発揮させる可能性だけでなく、人間同士の関係を作り出す可能性も奪われているということです。

・「労働の疎外」というのは、資本主義のもとでの労働を論じたものだといってもよいでしょう。

・マルクスはこのように、資本・賃労働という経済学的範疇の背後にある「直接的関係」を取り出そうとしました。これは経済学を批判してその背後の「生産関係」を摘出するというマルクスの生涯をかけた努力の出発点です。

(6)「資本論」への道のり
・マルクスとエンゲルスは1848年のはじめに「共産党宣言」を発表したあと、二月革命に参加しました。
・マルクスは、革命後ロンドンで経済学の研究を再開し、好景気の波がつづくかぎり、革命の勝利は期待できないと考えたのです。

・「資本論」はマルクスが生涯をかけた難産の書です。
・マルクスは草稿を何度も書き直したあと、ようやく1867年になって「資本論」の第一巻「資本の生産過程」を刊行しました。
→これは商品・貨幣論も含みますが、それに続いて資本主義の生産過程と蓄積の過程を「生産関係」的側面から論じたものです。

・彼はさらに第二巻「資本の流通過程」と第三巻「資本家的生産の総過程」の完成に努力しましたが、結局、どちらも親友エンゲルスの編集になる死後出版になります。

・深刻な問題は、第二巻、第三巻の完成度の評価です。
→マルクスが論じた資本主義の歴史的発展法則も、第二巻・第三巻で扱われている領域と切り離されるなら、その経済学的内容はかなり割り引かれなければなりません。

(7)労働価値説と商品論
・マルクスの労働価値説を理解するにあたって大事なことは、マルクスは数量関係だけでなく社会関係をも問題にしていたのだということです。

・問題にされる価値は使用価値ではなく交換価値ですが、それは商品間の交換比率として現れます。
→したがって交換価値は、その背後にいる人間同士の関係がモノどうしの関係としてあらわれる社会形態です。
→もし人々が互の必要とする財について直接話し合い、その生産の分担を決め合うならば、そこには各種の労働と財とを結びつける何らかの経済計算は不可欠であるにせよ、交換価値はとくに必要ではありません。
→交換価値は、そうした社会的な事前の意識的調整が欠けたなかで、市場経済によって社会的な生産を進行させる形態です。

・スミスやリカードは交換価値が存在し、それを説明するために労働をもちだしたが、マルクスは交換価値そのものが無政府的市場経済での社会形態ですから、労働もその生産物が売れ始めて始めてその価値が実証されるにすぎません。

・マルクスは労働価値説を階級間分配に適用し、利潤や地代を労働者からの剰余価値の搾取として説明しました。
→マルクスはこの搾取論においても、「商品」形態が重要な役割を果たすと考えました。
→労働力の価値である賃金は、標準的な構成の消費財分量に含まれる労働量で決定される。これは「労働力価値」ですが、資本家が労働者を働かせて生み出す価値(付加価値)とは異なる量です。資本が労働者を雇用するのは、前者を後者が上回って利潤を得ることができるからです。

・マルクスのいうように剰余価値が利潤として投下資本に応じて再配分されることによって価値が生産価格に転化するという議論は常に成り立つわけではありません。
→なぜなら、この転化は、剰余価値以外の部分(費用部分)の価値も生産価格に変えなければ完成しません。そのさい、もし、総価格=総生産価格を維持しようとすれば、総剰余価値=総利潤は崩れることになるからです。

(8)窮乏化と利潤率低下
・マルクスは資本主義の発展は労働と資本の双方の領域で不可避的に自らの基礎を掘り崩すとかんがえました。
→「資本論」の第一巻で「資本蓄積の一般法則」として論じられているのは、資本蓄積は労働階級の貧困と失業者の増大をもたらすということで、これはしばしば「窮乏化法則」といわれます。
→さらに「資本論」の第三巻では、さまざまな対抗的に作用する要因があるにせよ、資本の利潤立が低下する
という「傾向的法則」があると論じられます。これは、資本の自己崩壊を意味するでしょう。

・マルクスはこの二つの法則を、生産力の発展の指標として資本の有機的構成(賃金資本にたいする物的資本の価値構成)の上昇によって基礎づけようとしました。
→しかし、資本蓄積のうえで失業の増大を主張するためには有機的構成の上昇が急激であると想定しなければなりません。
→一方で、生産力の上昇は物的資本の価値定価をもたらしますから、技術的構成が上昇したとしても有機的構成が上昇するとは限らない。事実、利潤率低下がみられる場合の要因をみますと、有機的構成の上昇よりも労働分配律の上昇が大きな役割を占めています。
→しかし、このタイプの利潤率低下は「窮乏化法則」とは両立しません。

・古典派経済学の蓄積論と比較してみると、マルクスの貢献は技術変化と結びついた生産力の発展を資本主義の経済的運動に取り入れたことです。
→しかし、残念なことにマルクスは発展した生産力のもとでの分配関係を論じるにはいたりませんでした。

・階級闘争を重視したマルクスは当然、分配関係の社会的決定機構を理論化するべきでしたが、「資本論」はこれを欠いているのです。

(9)再生産論と恐慌論
・マルクスは恐慌や景気変動が資本主義経済に内在的なものであると考えました。
・マルクスは貨幣論においては重商主義の再評価をおこなっています。

・資本主義がその耐えざる変動にもかかわらず、自己を維持しうる経済体制であることを示したのは再生産論でした。
→再生産というのは、生産が一回だけで終わるものではなく、今期の生産が次期の生産を可能にするように編成されていることです。

・再生産の条件は、素材的であるだけでなく社会的なものでもあります。
→第一に、今期の生産物には今期の生産で消耗した生産手段も含まれており、資本家がその必要とする生産手段を購買しうるように貨幣が循環することが含まれている。
→第二に、消費手段は社会総体の労働者階級を養うのに十分であり、彼らの時期の労働力をあてにし得るということです。
→第三に、剰余価値が利潤として実現され、資本主義的生産の動機が確保されることも付加的な条件と考えてよいでしょう。

・いわゆる再生産表式論は、社会の総生産を生産手段生産部門と消費手段生産部門の2部門に分け、両部門の資本家と労働者から生まれる需要が供給と均衡し、前記のような条件が満たされる場合をモデル化したものです。
→マルクスはこの再生産表式を蓄積を含む拡大再生産まで展開したましたが、これは先駆的なマクロ成長モデルとも言えるでしょう。

・マルクスは生産手段生産部門が主導的に蓄積を決定するモデルを考えていたので、消費手段生産部門は恣意的な拡大・縮小を余儀なくされています。

・マルクス自身の場合には、金融的手段に支えられたブーム的な固定資本投資による実体経済における均衡の喪失が景気循環をつくりだしていると見ていたようです。

・再生産論のいま一つの発展の可能性はそれを分配要因を含んだマクロ的な有効需要論として捉えることです。

(10)マルクスの歴史的予言
・マルクスが多くの人を引きつけてきたのは、彼が資本主義の分析のなかからそれを超える未来社会の到来を予言していたからでしょう。
・マルクス「資本家的私的所有、つまり、資本家的生産様式から生まれる資本家的領有様式は、自分の労働に基づいた私的所有の第一の否定である。しかし、資本家的生産は自然課程の必然性をもって、自分自身の否定を生み出す。それは否定の否定である。これは私的所有を再建するのではなく、資本家時代の獲得物--協業、および、土地と労働そのものによって生産された生産手段の共同占有--の基礎の上に、個体的所有を再建するのである。」

理解
いつもは「大きな流れ」と「論点」をここに配置するのですが、今回はかなり複雑な内容なので、わかりにくいところを自分の言葉で表したり、参考になるページを紹介することにします。
(5)疎外された労働
マルクスの理論の重要なキーワードとして「労働の疎外」が挙げられると思います。
本書によると疎外とは「誰かに何かを譲り渡す」ことだとあります。
労働の疎外とは何を指ししているのか見てみるとその内訳は三つです。
・生産物からの疎外
つまり、労働者が自身の生産物を資本家に譲り渡すということですね。

・労働自体の疎外
「労働者は賃金を支払う人に彼の労働自体を」譲渡してしまっているということです。労働自体というのは、労働力と(その内容の決定も含めてとありますから)何を生産するか、どのように生産するかを資本家の決定に委ねるということでしょう。

・類的本質の疎外
本書によると「労働もその生産物も譲渡してしまうことによって、・・人間同士の関係をつくりだしていく可能性も奪われているという」ことらしいです。少しわかりにくいですね。
まず、上記二つの譲渡、つまり、労働と生産物の譲渡を行うと、労働=生産の意味が奪われると言っています。
つまり、労働者は自身で決定して労働を行うわけではなく、資本家に言われるがままに歯車として労働力を提供するために、「なんのために労働しているのか」「労働とは何なのか」(=労働の意味)という意味がわからなくなるということでしょうか。
そうすると、「自分の能力を発展させている可能性」が奪われるとあります。能動的に労働をするのではなく、受動的に労働するために、自己の能力が発展させることができないという意味でしょうか。
そうすると今度は「人間同士の関係を作り出していく可能性」が奪われるとあります。その具体例として「男女関係、交友関係、協同関係」が挙げられています。理解しがたいことですが、資本家に雇われる前の労働者は自分で材料を買い付け、道具を揃え、売りに行くような生活をしていたと想定すると、そういう中で生まれる地域社会とのつながり(?)、人とのつながりが希薄になるということでしょうか。男女関係まで可能性が奪われるというのはよく理解できません。あるいは、この説明では「労働の意味が奪われる」となぜ「人間同士の関係を作り出していく可能性」が奪われるのでしょうか。
「産業革命以降、生産手段が私有化されている資本主義社会では、それを持たない労働者は資本家によって自己の労働力を商品化され、その支配に隷属して労働をしなければならない。
労働者は自己実現を確認すべき生産物を自らの手にする事なく他人のものとされていく現実の中で働く目的や生きがいを失い、強制と苦しみしか感じる事ができない。
この状態を労働の疎外と言う。」
などという説明もありますが、(この説明があっているかどうかは別として)本書から労働の意味=自己実現であるかどうかは、読み取れないですね。

さらに、この小節では、(マルクスは)「労働の疎外によって成立し、維持されているものが<私的所有>あるいは<資本>だといっている」とあります。
これは、労働の疎外が引用した説明の意味だとすると、今の時代にそぐわない、つまり、現代では資本家に雇われて労働提供をしても自己実現や働く目的はみいだせうると思われている時代なので、「当時はそういう時代」であったという意味でしょう。
「疎外」に関してこちらのページで具体例を含めて説明されているので、一読してみるといいかもしれません。

(7)労働価値説と商品論
ここでも、わかりにくい表現があります。
「マルクスはこの搾取論においても、商品形態が重要な役割をはたすと考えました。それは、労働者は自分の労働力以外に何も売るべきものをもたず、その労働力の価格である賃金は、労働の再生産費、つまり標準的な構成の消費財分量に含まれる労働量で決定されるというものです。」
「標準的な構成の消費財分量に含まれる労働量」??
分量というのは、数量とか割合とかを表す語ですが、何か全体にあたるものがあってその中に消費財という項目がありその割合のことを「消費財分量」と呼んでいるのでしょうか。
この場合、全体として思い当たるのは生活に必要な財全体?消費財以外の財も含めてるとすれば、「土地」や「景色」、「友人」みたいなものが消費財以外の財ということでしょうか。財というものがわかりにくい気がします。生きていくのに利用する「何か」程度の理解でよいのか。
となると、「標準的な構成の消費財分量」というのは労働者が生活するなかで、色々な財を用いて生活するが、そのうちの消費財の割合の平均値、標準値ということでしょうか。
さらにそれ「に含まれる労働量」とありますが、これはその消費財を生産するのに投入された労働量ということでしょう。
一応このように理解すれば、「労働の再生産費」=「標準的な構成の消費財分量に含まれる労働量」という理解がなりたつとおもいます。
ただ、なぜ それが賃金を決定するのか。もちろん、賃金には労働を再生産するだけの支払いがなければ、労働者は生活できませんが、現代的な感覚だと「賃金はどのような価値のあるものを生産したか」によって決まると感じます。
ここが、マルクスの述べたいところとつながるのかとおもいますが、どんなに有益な労働をしても、資本家が再生産費以上の価値を搾取して結局は賃金は再生産費程度になるということでしょう。

さらにわからにくい文章
「結合生産がないという条件のもとでは、利潤が存在するためには労働の搾取の存在が必要なことは論証されていますが、マルクスがいうように剰余価値が利潤として投下資本に応じて再配分されることによって価値が生産価格に転化するという議論は常に成り立つわけではありません。なぜなら、この転化は、剰余価値以外の部分(費用部分)の価値も生産価格に変えなければ完成しません。そのさいもし、総価値=総生産価格を維持しようとすれば、総剰余価値=総理順は崩れることになるからです。」
この文章に関してもこちらのページに(このページで説明されていることの本題は上とは異なりますが)大変詳しい説明がありますので理解できると思います。

(8)窮乏化と利潤率低下
資本の技術的構成や有機的構成に関する説明がないのでわかりにくいですがWikipediaのこちらのページを読むと理解できると思います。
あるいはこちらのページなども参考になります。

第5章に関しては以上です。
*間違いや疑問点、関連する考え、あるいはまとめ方のご示唆などがあればコメント欄にてお願いします。
posted by きょうよくん at 15:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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