2012年12月26日

西部邁ゼミナール 知識人の裏切り

新しく動画カテゴリをつくりました。
私は読書趣味ではありましすが、活字だけに偏ることなくいろいろな形の情報を頼ることもまた大切だとおもっております。
とりわけ動画であれば、細かなニュアンスも伝わりやすく(その良し悪しは別として)活字とは違った印象をもって理解を進めることができるのではないかと思い取り上げさせていただきました。

今回はこちらの動画です。

番組名:西部邁ゼミナール(2012/1/7)
タイトル:知識人の裏切り
ゲスト:佐高信・・・評論家、「週間金曜日」編集委員



概要
1.原発知識人の言葉の軽さ
・佐高:原発知識人(推進派)の言葉には体重がかかっていない。
→西部:認識と自分の生活・人生が繋がっていないといけない。

・西部:私は今もなお原発支持者である。そう簡単に廃止してはならないというが、それは安全であるとう意味ではない。不安全でも危険でもやる他ないという状況がある。
→西部:完全に安全という技術はない。

・西部:舌の根のかわかぬうちに嘘をつく知識人がおおい。

2.マニフェスト
・西部:マニフェストとはもともとは宣言という意味であるが、現在どの党もそこに政策の数値・期限・段取りも示して選挙に出て支持をあつめる。
→西部:選挙民にそれを問われても判断できないだろう。
→西部:また、政策が選挙で決まっていれば、国会議会はいらなくなり、国会議会がいらないと代表者もいらなくなり、選挙がいらなくなる。このような怪しげなループの中に何年も巻き込まれている。

・佐高:ハヤシライスを食べたいと出前をとると、ざるそばが出てきて、それも質の悪いざるそば、そこで文句を言うと「変わるもんだ」といわれる。
→西部:マニフェストで約束をしても、状況が変わったといってやらなくてもいいらしい。
→佐高:良かれと思ってかわるならまだいいが、悪くなる。

3.言葉と保守
・西部:人間がかろうじてもっているのは言葉。
・西部:言葉は過去からやってくる。過去には良い過去も悪い過去もあるが、私が保守を名乗り始めたのは、良い過去の方に一つの参考軸にしながら今の言葉をはこうと考えているからだ。

4.左翼
・西部:左翼をなぜ「左」翼というかというと、フランス革命の時代に議会の左側に座った人達、ジャコバン党は「自由平等博愛、過去のものを壊せ」といっていて、そこから「左」というのが来ている。

・西部:冷戦というのは左翼同士の対立だった。日本では左翼Aにつくのが保守で、左翼Bにつくのが左翼だということになっていた。
→西部:古いものを大事にしないという意味では自民党も経団連も左翼である。
→佐高:西部さんや私は伝統の言葉に新しい命をふきこむ。左翼の人たちは、伝統の言葉を後生大事にしている。

5.知識の断片化と定説
・西部:シェイクスピアを読んだことがあるが、そこではシーザーは変な奴ということになっていた。それが今では偉い奴ということになっている。
→西部:知識を断片化してわかりやすいところだけ何度もまわしていると、それが間違った定説になってしまう。
→佐高:偉い人は偉い人という話になっている。

・西部:司馬史観は相当間違っていると思うし、佐高さんは100%間違っているというようなことも言っている。
→西部:嘘が平気でまかり通る。しかも、それが定説・前提条件になっている。こんなことは今までなかったのではないかと思う。

6.専門家
・西部:specialist(専門家)の「spec」というのはlook atの意味である。専門家で、物事の一部だけを見て「〜は〜である」という人は多い。そこに一理はあるが、それで全体を表現するのは困る。また、いろんな情報を集めても、ふくわらいのようになるのも困る。
→佐高:班目春樹は原発は爆発しないと言ったその30分後に爆発している。所謂学者の人を専門馬鹿というが、その人たちは専門馬鹿ではなく専門「も」馬鹿である。
→西部:誇張すると専門をやっているから馬鹿になるわけではなくて、「専門」そのものがかなり馬鹿げている。普通なら常識に基づいて全体像を見る。

所感
読者の皆様はこの動画をみてどのように感じたでしょうか。
私は、西部先生の人柄や話し方というのは大変好きで、動画をとりあげるならばはじめは西部先生がでていらっしゃるものをと考えていました。ユーモアもあり、見ていて面白いものであったと思います。
それはさておき、今回は原発知識人(推進派)の批判という流れで始まりましたが、全体的には「保守」に関する議論であったと思っております。
現状認識の是非はとにかく、原発にせよ、マニフェストにせよ言葉を軽んじるものが多い。言葉というのは過去からやってくるものであり、良い過去というものを参考軸にしたい。専門家の発言に一理はあるが、全体像をみず、また常識的な判断もできていない。というのが大筋の流れのだと思います。
日本倫理思想史(佐藤正英、東京大学出版)を参照すると「良知は、思弁を重ねることなく、推論を用いず、知識の力を借りて修練を積まなくとも、おのずから是非善悪を知る生き生きとした心のはたらきである。是非善悪を知るとは、是非善悪を現前せしめることである(知行合一)」とありますが、言葉と人生を結びつけよというのは、陽明学の「知行合一」に近い考えかもしれません。
また、全体像を意識するのに「常識」という言葉を持ち出しましたが、保守というものを古い価値観を尊重する考えであるとすれば、変化するにせよ相対的に過去の価値観である常識を参考にするというのはいかにも保守の考えであるととれると思います。
私は、テレビを見たり活字を読んだりする際、「誰が言ったか」ということはほとんど気にせず「何を言った」ということを気にするようにしています。というのも、その言葉の真偽に関して、発言者がどのような人物で過去何をやったかは影響がないからです。
(例えば殺人犯が「殺人はダメだ」といったところで、聖人が「殺人はダメだ」といったところで、説得力に差はあるにせよ発言者によらず真偽(正しいか、正しくないか)の差はない)
このように考えると、発言者の言葉が軽かろうが重かろうが関係ないのですが、問題は真偽の判断が容易ではない場合、とりわけ専門の知識に関する発言であった場合どうすべきかということです。
ある人によっては勉強して専門知識を蓄えてから判断するということもあるのでしょうが、専門知識はその専門性ゆえに習得するのに時間・労力がかかるためほとんどの方にとってはそのやり方は現実的ではないでしょう。
動画のマニフェストに触れた時に「投票者に政策の数値・期限・段取りを提示しても判断がつかない」というようなこともおっしゃっているのも同様の問題だと思います。
西部先生がおっしゃるには、専門家は常識をもって全体像を見定めよということ、それを受け取る側は専門家をしすぎるなということでした。
これは、私には少し物足りないようにおもいます。専門家がさらに賢くなって正解に近づく、また、広い視野をもって考えるというのは良いことであるようにおもいますが、常識をもつことによって全体像をみるというのはいささか腑に落ちません。この場合の常識というのは日常会話でもちいる常識よりも、もっと強力な知識を要請しているのでしょうか。
また、受け取る側が専門家を信用しすぎないというのはそれはそれとして良いのでしょうが、では、何をどうすべきなのでしょうか。先に申し上げた知行合一を体現しているような人を信じよということなのでしょうか。
この点、先日メディアリテラシーでとりあげた、いろんな視点を持つということは一つの回答かもしれません。また、受け取る側が知識(西部先生だと常識というのかもしれませんが)を身につけることも一つの回答だとおもいます。この点、読者の方々はどのように感じるでしょうか。

この動画に関しては以上です。
あまり頻繁には行えませんが、また、他の動画に関しても取り上げたいと思います。

*間違いのご指摘やご自身のご感想に関してはコメント欄にてお願いいたします。また、取り上げて欲しい動画などございましたら書いていただければ参考にしますが、私の知識や時間的な制約によって全てを取り上げれるわけではないことご了承ください。

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posted by きょうよくん at 12:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 動画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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